2012年05月24日

阪本工営が知った、日本の建築士・丹下健三さん

阪本工営の建築士合格日記』
みなさん、おはようございます!阪本工営です。
最近、大阪は晴れ続きですね。今朝の大阪も
快晴でした。南の太陽はさわやかですが
西日はとても暑くてきついので、すだれを垂らしたいと思う今日この頃です。
阪本工営の建築士合格日記ブログ、
本日は、阪本工営が気になる、日本の偉大な建築家・一級建築士の
丹下健三さんについて調べました。

丹下健三さん
(参考文献:Wikipedia)


丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)さんは
日本の建築家、都市計画家。一級建築士です。

「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、
認知された一人だそうです。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、
多くの国家プロジェクトを手がけたそうです。
また磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成したそうです。
位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。
カトリック教徒で洗礼名はヨセフだそうです。


世界の評価

日本の近代建築は、第二次世界大戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレベルに
達していたましたが、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって
初めて、明確に世界のトップレベルに引き上げられたと言っても過言ではないそうです。
それ以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超えて、質・量ともに世界の建築界の中でも
傑出した地位を築く道を、後進へと開いたと言えるそうです。
第二次世界大戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを
背負い続けた建築家ですが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以降、
その活躍の場は必然的に中東やアフリカ、また東南アジアの発展途上国に移っていったそうです。
唯一とも言える例外はイタリアであるそうです。

自らがアイデアを出して、それを単にスタッフに図面化させるのではなく、
建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、
協同で設計する手法を確立しました。それにより後年、
丹下の下からは大谷幸夫・浅田孝・沖種郎・槇文彦・神谷宏治・磯崎新・黒川紀章・谷口吉生らの
多くの優れた人材が輩出することになりました。

かつて、ソビエト・パレスとの出会いが、大学受験間際になって志望を建築学科に
変えさせたように、丹下に対するル・コルビュジエの強い影響は、卒業設計においても鮮明に出ています。
そのことは、後年自らの作品にコルビュジエ由来のデザインを数多く引用していることでも
明きらかでありますが、そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスの圧倒的な影響のもとに、一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップ(視線がとまる対象物)を配置するというプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から広島平和記念公園、ナイジェリアの新首都新首都アブジャ都心計画に至るまで、たびたび用いられて丹下の十八番となりました。

ランドスケープにおいて対称軸を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を
持たせるということを、ミケランジェロのカンピドリオ広場からの影響と見て取ることも
出来るそうです。丹下自身は晩年に至って、古今東西の建築家のなかで誰が一番かと問われると、
コルビュジエよりもミケランジェロの方が上だと言い、そのことは出世論文のタイトル
「MICHELANGERO頌」(頌とは誉め讃えるの意)においても明確に示されているそうです。
丹下さんはその論文の中でハイデガーのヘルダーリン論を援用し、
グロピウス流の四角四面な建築幾何学から離れて、建築が自由な創造行為に昇華される過程で
聖性(至高性・精神性)をも獲得し、社会的要請が建築を作るのではなく
、建築家が建築行為を通じて世界を再創造していくという論旨を展開し、
コペルニクス的転回によって建築と歴史との関係性を逆転させているそうです。

つまり、丹下さんはコルビュジエの近代建築の語法を用いながら、
ミケランジェロの芸術の持つ宗教的な記念碑的超越性を、近代建築においても
獲得させることをめざしているのでありました。そのことが個人生活においては、
(ある意味、サグラダ・ファミリアにおけるアントニ・ガウディのような)建築するという行為への
献身的な専心となって表れ、建築設計においては都市計画への強い関心となって現れました。
かつてミケランジェロがルネサンスにおいて、サンピエトロ大聖堂大改築の主任設計士として
中世を超克しようとしたように、あるいはマニエリスムの自由な芸術表現によって
ルネサンス様式そのものを超克しようとしたように、精神史の上で、コルビュジエがいうところの
「建築をめざして」、近代を建築の力によって超克することを、丹下はめざしたと言われています。

建築史家の藤森照信によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、
建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったそうです。事実、
これだけの巨匠でありながら、生前MoMA(ニューヨーク近代美術館)に請われながらでさえ、
過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった。なお、丹下自身は、
東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている。

2005年(平成17年)3月22日、心不全のため91歳で死去した際には、自ら設計した
東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀が行われたそうです。葬儀では、
磯崎新が時折涙で声を詰まらせながら弔辞を読んだそうです。生前カトリックの受洗に与っており、
洗礼名は聖母マリアの夫であり大工でもあったヨセフであったことが、その時人々に知られました。

2006年(平成18年)4月、広島平和記念資料館が、村野藤吾の世界平和記念聖堂
(1953年、広島市中区幟町)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めての
重要文化財(建造物)指定となっています。

とても偉大な功績を残し巨匠でありながら
自身の過去に興味をもたず、請われていながらも
過去一度も回顧展の類いが催されることがなかったという
自分の栄光に興味を持たない、過去の業績を振り返らない
丹下健三さんという純粋な職人の姿に驚き、感動しました

それでは、本日はこの辺で失礼します。

posted by 阪本工営 at 11:55| Comment(1) | 阪本工営が出会った建築士 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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